美味求眞:美味しいものを食べている人しか美味しい酒は造れない。
桝田酒造店
私共は美味求眞はもう一つのモットーと考えます。富山という地は海の幸、山の幸にふんだんに恵まれ、当然舌が肥えます。
日本酒も新鮮な素材を活かす事が求められます。
立山連峰からの膨大な雪解水が富山湾に注ぎ込み、富山ならではの甘海老やシロエビ、寒ブリ、バイ貝、ホタルイカ、ズワイガニが育ちます。
あじ、さより、きすなどの小魚の種類の多いこと。深い雪の下から芽吹く山の精気を蓄えた山菜の数々はまさに精神的な薬膳です。
自然の味が濃く凝縮した素材には、流行りの淡麗辛口は役不足。綺麗であるが味のしっかりした
旨い満寿泉はこうして磨かれています。
東岩瀬
かつて北前船(地元ではバイ船と呼ぶ)の交易で栄えた廻船問屋の町屋や料亭のたたずまいに往時の繁栄が漂います。 桝田酒造店は、この界隈のなかほどに蔵を構えています。
旭川で創業
初代兵三郎は、当時岩瀬の五大家と言われていた廻船問屋から妻を迎えた長男亀次郎らと共に北前船に乗り、開拓の地 北海道旭川にて酒造業を興した。 旭川酒造史に「都松」の商標で最初に登場するのは明治26年のことである。年間1,500石と明治年間としてはとても大きな規模にまで成長するが、亀次郎の妻フデが明治36年の寒波の後、「もう岩瀬に帰りましょう。」と言い出し、明治38年現在地に戻った。
岩瀬では「岩泉」という銘柄で始めたが、港の芸者衆にも飲んでもらう為、昭和の始め頃今で言う別ブランド展開で苗字の桝田にちなんだ「満寿泉」というまことにめでたい名をつけ販売した。それが成功し、現在は「満寿泉」が主力ブランドになった。
吟醸満寿泉
四代目当主桝田敬次郎は、醗酵工学を専攻し大学院に進むが、父の急逝により、二十二歳で蔵を継いだ。
昭和四十年代半ば、吟醸酒という個性を放つ酒がまだ一般市場で認められていない時代、生き残りを賭け吟醸酒造りの道を敢えてハイリスクを承知で選択したが、どんどんのめり込んでいった。
当時まだ若手の杜氏 三盃幸一は蔵元の良き右腕として、その手腕を大いに発揮した。
数年後には早くも成果を出し、昭和47年から鑑評会の金賞受賞の常連組になった。
「私は酒を造るのは酵母や麹であり、人はそれらがうまく働いてくれる環境を創るだけだと思う。」「何から何まで手造りというのはムード造りという感があって、品質を考えると全て手造りを良しとはできないんですね。」と合理的なことを言うが、麹室の改修をした時、杜氏が蔵人と能登から杉材を持ち込み、自分で納得のいくよう昔のままに組み立てた。 断熱に使うムシロとモミガラがなかなか手に入らなくて、仕込み直前に何とか間に合った。随所に思いがこもる。
満寿泉の酒造りは毎年10月中旬の大安日に始まる。田圃の刈入れが終り冬支度をして、奥能登から杜氏以下賄の料理人も含め蔵入りする。春の田植え時期まで日曜日は勿論正月も普段と同じ仕事が続く。
以前は半年の間、休暇は一日もなかったが、今では蔵人は月に一度2泊3日の帰郷が出来るようになった。
しかし三盃総杜氏は18歳でこの道に入って以来、 一度も正月を郷里で過ごした事がない。父も親類も杜氏というエリート杜氏の家系、父の後を受け満寿泉の杜氏になった。
兵三郎、亀次郎、敬一郎、敬次郎、隆一郎、敬太郎と桝田家6世代をよく知る。
「酒の味は時代と共に変化するもので、その時代の感性に合った酒がある。 当然技術の進歩も日々あるわけで、もっともっと美味い酒を求めたい。」
成功経験が多い人はなかなか過去を捨てられないものだが、今でもきっぱり言う。
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